昭和52年06月28日 朝の御理解



 御理解 第42節
 「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」

 「これほどの信心」と言う事は、どう言う事が言えるだろうか。「毎日お参りしておるのに」という。ね。「本当に教会で御用と言えば一番に、色々御用をさせて貰っている」と言った様な事が、「これほど」と言う事になると、私はならんと思う、ね、実に様々に工夫もしてみる修行もしてみる。それでも尚且つおかげが受けられない。ね。そういう例えば時であっても、「これほど信心するのに」とは私はまだ言えないと思う。「あなたにとって、金光教の信心とは」と言った様な問いをよく聞きます。「あなたにとって、信心とはどう言う事ですか」というわけですね。
 まっ皆さんの場合なら「あなたにとって合楽の信心とは、どういう風にどういう具合に、自分の心の中に占めておるか」と、ね。良く調べてみると、ただ神様を使おうとしておるだけの信心ではなかろうかと。便利便利のために使う、信心しておる様な事はなかろうか。これではいくら、なら日参が出来た所で、修行が出来た所でです、御用が出来た所で「これほど信心する」と言う事は言えないと。ね。
 私は思うです。信心はどこまでもね、もう私にとって信心とは「命です」と言えれる所までいった時に、まあ本当の事になるのではないでしょうか。もっと進んだら私にとっての信心は「もう命以上です」と言う事にもなっていかなければならない程しのものなんです、信心とは。私の信心はどう言う事になっとるでしょうか。私はどうでもそのう命以上とまではいかんでも、「信心は私の命です」と言う所までいかなければ、私は「これほど信心する」ということは言えないと思うんです。
 ただご利益を貰うためにだけに、「一生懸命に拝んどります。」「参っとります。」と言う様な信心では、ね。「信心は祈り」そこにはね、もう言うなら、おかげとかおかげでないとか、と言う事はありません。いわゆる本当の信心の世界があるのみです。それこそそういう信心を身に着けたい。どうも信心が重荷になっておる。昨日研修の時にお話した事でしたけれども、あなた方の場合は、もう全身全霊を神様に奉げて、そして神の前だち、金光大神のお手代わりとしてお役に使うて下さい。ね。
 しかも生涯を言うなら、全身全霊を神様に供えておられるようなものなんです。ですから言うなら、信心をもうに専念しておるわけです。言うなら信心はもうあなた方の命なんだ。ね。それなのに一人一人の、皆さんの自分の信心を、まあ自分の信心の内容というものを見てみて、どういう風に銘々が感じるかと「本当に足りない事だらけだ」と思うだろうと少しまあそんな事を厳しく申しておりましたら、昨夜の、御用日誌の中に(笑い)、それが出て来ておる。
 昨日は、梶原君が正奉仕でした。気が遠くなる程先の方をみつめて、今の足元を疎かにしがちになる。「今日は一日忙しく御用が出来て良かったと思うと、『今の修行生は甘い』とか、『なっとらん』とか言われると、途端にどうして良いか分からなくなる」と書いている(笑い)。やっぱ御信者さんの中にもそのう、やっぱり皆んなの事を心配して言われる方がありますよ。
 それこそあのう、椛目時代でしたけれども、古賀先生が初めて修行に来ました日でした。たまたま正義先生の前ではしとりました。そしたら一緒なら食事をさして貰う、私も食事をさして貰っておったら。先生があんな風で体が弱かったから、オーバーを着てからマフラーをはめてからご飯しよる。そしたらそれを取って押さえるように正義先生が「あのう古賀先生。あんた椛目に修行に来てからね、親先生と一緒にご飯してマフラーも取らんなご飯食べござるごたる風じゃ修行出来んばな。」
 ち言うてからえらい剣幕で言った事を私は覚えておりますが、それが古賀先生には大変きいたらしくて、以来そういうことが無くなったと当時言っておりましたですね。だから合楽で修行しておる人達の事を思うから、そのやっぱり言う。言うのは言うのですよね。ただ足元ばっかり見て怒って言うのじゃない。ね。思うからまあそう皆が言うて下さるのだと。「なっとらん」と言われたら「はぁ本にやっぱ、なっとらんな」と。「今の修行生は甘い」と言われたら「本当に自分達の考え方は甘いな」と。
 私は昨日申しました事でしたけれども、毎日久富繁雄さんところの国雄さんが、毎朝北九州の方へ野菜を出しに行かれます。前の晩からチャンと準備をして車に積んで、そして毎朝、朝の2時半に起きるんだそうです。そして3時から出発。勿論朝の自動車が少ない時ですから、行きがけはもう2時間位でやっぱ行くそうです。そっでもやっぱり往復なら5時間余りは掛るわけです。しかもそれが毎日出来ておる。ね。新聞配りの少年が毎日4時に起きて新聞集配所に新聞取りに行く。
 今はどうか知らんけど私どもが新聞配りしよる時にはそうじゃった。しかもその時分の言うならば、新聞配りというのは盆も正月も無かった。ですから結局「本気でやろうという気が無いからだよ」と私が言う。ちょっとどっか悪かちゃもう出てきちょらん。あん具合が頭が一寸痛かったっちゃもう寝とる。ね。夕べが遅かったらもう一部屋全部朝の御祈念に出てきちょらん。やっぱおっちょっとですよね。「もうあいが寝とんなら、おいも寝とろう」。という風なこっちゃなかじゃろうか。
それで私が申しました。「あなた方の場合はね、いうなら、学院の延長のごと思うとらせ んか」て「ここを」。学院では絶対そんな事は無い。具合が悪かったら休んでも良し、医者に行っても良い。そして出らんなら出らんでも良い。ね、勿論成績には関りましょうけれどもそれをどうこう。だから「合楽に修行に来て、合楽いうなら御本部での延長のような思い方では、合楽では出来んぞ」と私は言いました。
 「ここはもう愈々本当の意味において、合楽理念をマスターして、合楽理念が自由自在に、自分の心の中に頂けれる、受けて留められる。その事をね例えば一日なら御無礼したら、もう例えば十年なら十年修行するとに、もう何時間というものがどうっと空白になるんだよ」と。「学院の延長のような考え方ではいけない。」とまあ言うわけです。ね。言うならば、「お百姓さんですら、毎朝市場に行かれるお百姓さんですら、行くためには前の日からちゃんとその準備をして。
 2時半には起きて3時には土井(?)を出発して、しかも毎日行きよんなさるぞ」と。「ましてなら信心を願う者がね、それを専念させて頂いておる者がね、本当に考え方が甘いと言われても仕方が無いじゃないか」と言うわけです。ね。昨日学院の秋山誠治先生からと末永先生から手紙が来た。だからその二つを先ず先に読みました。もうそれこそ誠治くんの手紙なんかは、もうサッとその作文しとる全面の中に、始めから最後までもう生き生きとしてはち切れるような、そのう信心を今させて頂いておる。
 どんなに苦しい事であっても、その苦しい事が無くなるという程有難いものは無いと言った様な事を言っています。そして言うならば、合楽理念を求められ合楽理念を尋ねられたりすると、それがもう自分の事の様に嬉しゅうてありがたい。ね。最後にいつも書いとります「どうぞ取次者の中の取次者にお取り立て下さい」というわけなんですよ。ね。そういう願いを持って、言わば信心に取り組むならです、ね、その生き生きとした信心が、ね、願いの成就にならないはずが無い。
 大変長い手紙ですから、あのう少しばかり末永先生の手紙を読んでみましょうか。「最近、毎日参って見えるエルザルッチシリズさんにブラジル語を習っています。この方は元校長先生をしておられた方で、学校での人間関係のわずらわしい問題に悩まされ、お参りをはじめられ、以来沢山の人を導かれ毎日熱心にお参りになります。ご主人と一緒にお参り、参られた時にご主人の発案により幼稚園の本を買って来られて、それを教科書にして習っております。
 最初はブラジル語を覚える、覚えようという意欲がどうしても起きず、苦痛の種でした。数日前お夢の中で正教先生が外人の方相手に嬉々として語学の勉強をしておられる所を頂き、私もこのままではいけんと、心の上にお繰り合わせをお願いさせて頂いておりましたら、ここ2、3日少しずつ楽しさを感じさせて頂いております。参拝者の中には外人の方が多く、若い日系人の方達もほとんど日本語は通じず。
 これまではいつも新田さんご夫妻の通訳、ご夫妻に通訳して頂いていましたから、何やら不自由を感じる事がなくおかげを頂いて参りました。今朝からも私がブラジル語が話せず、そのためにお参りが出来ないという方の話を聞き、是は矢張りおかげを頂いて、片言でもブラジル語の分かるおかげを頂かねばと思わされました。ここまで書かせて頂きました所に、エルザさんがお参りされ、サンパウロ在住の友人ヴィ・ゲンマル氏が癌のために絶体絶命の危機にあるそうで、その事のお願いをされます。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。先日サンパウロ在住中谷オルグさん、女乳癌再発のために一時危篤状態に陥いられ、今度新しく総代になられた西野さんがお願いをされ、それを境に外食(?)も良くなり、声に元気が出ておかげを頂いておられます。先々のお繰り合わせをお願い申します。有難う御座いました。元PL教婦人会長沼田とし子さん54才、ご主人の精神病に悩まされ10年間PL教の信心をされるのにいっこう験が見えず、大祭を境に参拝のおかげを頂かれ。
 その日より早速おかげの印が見え、やかましかったご主人が急におとなしくなられ、以後打ち込んでの信心をされ、ご自身の体の上にも次々おかげが頂かれ、子供達の上にもそれぞれに目を見張るばかりのおかげを頂かれ、感謝感激毎日のように新しい人を導いては、その人達の上にまた素晴らしいおかげを頂かれ、有難く篤くお礼を申し上げます。ヴィリグイ在住重永太一氏、若かりし頃よりブラジルへ渡り、一旗揚げんものとあらゆる仕事に手をつけたけれどもいっこうに芽が出ず。
 あらゆる宗教に走り教えを乞うても得心がいかず、目を患い行き詰まり行き詰まられた所で御神縁を頂かれ、目の病も薄紙を剥ぐようにおかげを頂かれ、初めて聞く助かりの理念たる合楽理念にこれこそ天地の道理・天地の真理と一心発起され、以来朝参りの信心が続けられております。有難う御座いました。親先生の手紙を聞かせて頂いておりましたら、筆の運びは尽きる所が御座いません。あれを思いこれを思うても、親先生の祈りの籠もらぬものは何一つとてはなく、有難く篤く篤くお礼申し上げます。
 30日は合楽教会悪疫予防・交通安全大祈願祭に合わせて、ヴィリグイ教会におきましても、皆さんの願いにより内々ながら仕えさせて頂く事になりました。お祓いを受けました車の1台1台が、この1年間交通安全・無事息災の無事故におおみがけをこうむらして頂きますよう、切にお願い申し上げます。7月1日よりは愈々合楽名物、夏の祈願夏期信行が始められる事でしょう。こちらは丁度冬の最中です。
 合楽教会の夏、夏期信行にあわせて、こちらでは寒中修行に取り組ませて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。長くなりましたけれども、本日はこれにて失礼させて頂きます。親先生有難う御座いました。ブラジル国の平和と繁栄をお願い申し上げます。合掌」と。これは手紙の半分ですけれど、生き生きとしておかげを受けておる様子が見えますですね。
 しかもあらゆる宗教に走る。あらゆる宗教をなら研究した人達が、これこそ天地の真理、これこそ大助かりの理念と言うて、合楽理念の研究を始めたという人達がでけた。期待致しております。まあだようやく50日。ね。だからそういうならおかげを頂いておった、なら末永先生がどういう修行をしとったかということ。ね。親先生をどのような風に頂いておったかと言う事なんです。
 矢張り命ではなかったろうかと思います。ね。信心はもう命ひょっとすると命以上とさえ思わなかったらああした、言うならば大胆な布教には出られなかったと思いますね。もう死以上のもの。ね。死は覚悟の上。ね。それにはです矢張り今、誠治君がここにまあ上げよりませんけれども、それこそ全部の中にも生き生きとした、はち切れるような神様に向かう姿勢。そしてなら「苦しいと思うておった事が、有難くなる所まで」と言っております。なら合楽の修行生の方達も熱心に一生懸命、皆やってます。
 けれどもやっぱり人間ですから、様々な悩み・難儀はあります。けどもその悩み・難儀が有難いと言う所まで、突き抜ける信心をさせて頂かなければ、私は本当の信心の有難さが分からない。そのために信心が愚図愚図して居る様な事ではいけない。「これほど信心するのに、どうしてこんな」と言う。私は今日は「どうして、これほど信心する」と言う信心をです、お互いの所で一つ確かめてみたい。
 そしてあなた方にもし、ね、「合楽の信心があなたにとってどう言う事なのか」を一つ確かめてみて下さい。そして「信心とは」ね、結局「信心はもう命だ。」と言う所になって参りましたらです、ね、例えば「それに生活がかけられておる」という、なら国雄さんのお野菜出しだってです。「もう今日は5時頃から行ってから、眠かけんで」と行ったら、もう市場に行ったらもう明日のセリにしか間に合わないでしょう。ね。皺が入ったら値段も恐らく安くなるでしょう。ね。
 それこそもう、前の晩から準備をして、2時半には起きて、3時に出発さして貰うて、ようやく向こうのセリに間に合うのです。ね。しかもそれが毎日続いておると言う事なんです。ですからねこれは、なら繁雄さん所の国雄さんだけの事ではありません。皆市場に通っておられる方達は皆そうです。いいえそれは新聞配りの少年だって、こうと決めたら、やっぱ盆も正月も無い様な修行をしておるです。ね。
 それを何故出来ないかというと、ね、言うならばそれに生活が掛っておるというただけでもそう言う事が出来るんです。ね。けれどもこれがこの信心が自分の生命に掛っておるという程しの事になって来る時に、本当の言うなら「これ程の信心」と言う事が言えるのじゃないだろうか。同時になら「これ程の信心しておるのに、どうして」と言った様な事は勿論、出て来ないと思うですね。
 それこそ誠治君じゃないけれども、苦しいと思うておった、ね、悩ましい事だと思うておった、それが悩ましくもなからなければ苦しくもない。「ただ有難い」というあの答えが出てきて、「信心に修行に、生き生きと取り組んでおります。」と言うのです。これはほんならここの修行生だけの事じゃありません。お互いの信心も果たして合楽の信心が、あなた方のどういう程度にあなた方の心の中に占めておるか。ね。どうでも一つ信心は命だと思われる程しの信心に打ち込まなければ。ね。
 ただ合楽の信心とは、ただお伺いだけに、またお願いをするために、ね、言うなら便利が良い。だからおかげを受けるためにと言った様な事での信心は、必ずね何かに直面すると「どうして、この様な事が」と言う事になります。なり兼ねませんです。ね。どうでも一つ、おかげを頂いて、もう、そこに命がかけられるというと、大変こう厳しいようですけれども命をかけると言う事は、一生懸命と書いて「一生、命を懸ける」と言う事になります。そういう信心を身に着けていきたいですね。
   どうぞ。